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1974年
ユーゴラビア憲法を改正。セルビア共和国のボイボジナ・コソボ地方を自治州に格上げした。

1980年5月4日
チトー大統領死亡。終身大統領制を改制し、ユーゴスラビア社会主義連邦を構成する6共和国(クロアチア・スロベニア・セルビア・ボスニア=ヘルツェゴビナ・マケドニア・モンテネグロ)とセルビア共和国の2自治州(コソボ・ボイボジナ)の代表者で構成される連邦幹部会から議長を1年ごとの輪番制で選出し、国家元首とする。

1984年2月8日
ボスニア=ヘルツェゴビアナの首都サラエボで冬季オリンピックが開かれる。

1989年2月27日
コソボの炭坑夫のストライキ、学生のデモの鎮圧のため、セルビア政府は非常事態を宣言し警察隊をコソボに派遣した。非常事態宣言は1990年4月まで解除されなかった。

1989年3月23日
セルビア政府は1974年憲法で確立されたコソボの自治権を押さえ込む。

1990年1月24日
コソボで約4万人が非常事態宣言の解除とアルバニア人指導者アゼム=ブラシの裁判取り消し、コソボ共和国の独立を要求するためデモに参加した。

1990年7月2日
コソボ議会のアルバニア人議員は首都プリシュティーナの議会の前に集まり、コソボ共和国の独立を宣言する憲法を採択した。

1990年7月5日
コソボ議会のコソボ共和国独立宣言を違法とし、セルビア議会はコソボ議会を解散を決定。

1990年7月16日
社会党はスロボーダン=ミロシェビッチ(ユーゴスラビア大統領)を党首に選出した。

1990年9月7日
解散したコソボ議会の代表者らコソボで秘密会議を開き、コソボ共和国憲法を可決した。

1990年9月28日
セルビア議会は新セルビア共和国憲法を可決。この憲法によってコソボ、ボイボジナ両自治州は自治権を剥奪された。

1990年12月9日
セルビア、モンテネグロ 両共和国で初めての複数政党による選挙が行われた。モンテネグロでは、共産主義者同盟が大勝し、セルビアではセルビア社会党が議席の過半数を獲得した。また65.35%の票を獲得したスロボーダン=ミロシェビッチ(現ユーゴスラビア大統領)がセルビア共和国大統領に選出された。

1991年3月19日
セルビア議会は解散したコソボ議会の権限を引き継ぎ、リザ=サプンジア、コソボ連邦幹部会員を解任した。

1991年3月20日
セルビア議会はセイド=バイラモビッチをコソボ連邦幹部会員に選出した。

1991年6月25日
クロアチア、スロベニア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言する。

1992年2月29日
ボスニア=ヘルツェゴビナでユーゴスラビアからの独立の是非を問う国民投票が実施。ほとんどのセルビア人はこの投票をボイコットした。

1992年5月24日
セルビア政府が違法とする複数政党制によるコソボ議会とコソボ大統領選挙が実施された。大統領にはイブラヒム=ルゴバ(コソボ民主連盟)が就任し、コソボ民主連盟が78%の票を獲得した。

1992年10月15日
ミラン=パニッチ ユーゴ連邦首相がコソボでイブラヒム=ルゴバと会談。立法、アルバニア語による教育と情報提供の準備の確立で合意した。しかしコソボの独立問題について討議はなされなかった。

1993年1月10日
ブトロス=ガリ国連事務総長は、コソボはセルビアの統合された一部で国連の活動はコソボ自治州を保証するのが目的であり、それにはベオグラードの合意が必要であると国連で語った。

1995年12月14日
デイトン和平合意

1996年2月
コソボ分離を軍事闘争で実現化しようとするコソボ解放軍(KLA)の爆弾事件が始まる。

1997年9月
学生デモ隊がセルビア警察と衝突

1998年1月30日
コソボを二年間、国際保護下におくことをイブラヒム=ルゴバは提案した。

1998年2月22日
ロバート=ゲルバート アメリカ特使セルビア当局を避難した。しかしゲルバートはユーゴスラビアからの独立を希望するアルバニア人の要求を拒否した。

1998年2月28日〜3月1日
セルビア特殊警察はドレニツァ地方のプレカズ村を攻撃。コソボ解放軍(KLA)のリーダー、アデム=ヤシャリとその家族を戦闘で射殺した。アルバニア系の情報によると約80人が殺害された。
この作戦以降コソボ各地でKLAの活動が活発になり、一時はコソボの40%がKLAの支配下となった。

1998年7月6日
コンタクトグループ(アメリカ・イギリス・イタリア・ドイツ・フランス・ロシアの6カ国で構成される旧ユーゴスラビア紛争連絡調整国)などで構成された国際監視団がコソボ監視活動を開始。

コソボ解放軍がロジャ村(ペーチから三キロ)を攻撃。セルビア警察官4名が死亡。

1998年7月28日
首都プリシュティーナから南西40キロのコソボ解放軍(KLA)の拠点マリシェボをセルビア警察が制圧。多数のアルバニア人難民が流出した。

1998年8月
アルバニアとの国境に近いコソボ解放軍の拠点ユニク村をセルビアが制圧。

1998年9月29日
セルビア警察筋によると、コソボの南部地方で少なくとも22人のセルビア人の焼却炉で燃やされた遺体を発見した。

1998年9月29日
ドイニ=オブリニェ村でアルバニア人の遺体が発見される。また他の2地域でも同様の事件が発覚し、少なくとも合わせて36遺体が発見される。アルバニア人側はこれらの事件を虐殺と発表。この事件をきっかけにNATOはユーゴスラビアへの空爆の可能性を真剣に検討し始める。

1998年10月12日
NATOは、ユーゴスラビアへの空爆の最後通告を圧力にし、リチャード=ホルブルグ米特使の調停でコソボ解放軍とセルビア警察の間で停戦を合意した。また2000人のOSCE非武装停戦監視団のコソボへの派遣に合意した。

1999年1月15日
ラチャク村で約40のアルバニア人の遺体が発見される。OSCEコソボ調査団ウイリアム=ウォーカー団長はこの事件をセルビア警察による虐殺と発表。

1999年2月6日
フランスのパリ郊外のランブイエ城でコソボ和平会議が始まる。この会議でセルビア側はテロリストとの直接交渉は絶対拒否するという姿勢を崩さず、アルバニア人側はユーゴスラビアからの独立が合意の最低条件とし、両者一歩も譲らなかった。NATOの実質的目的はコソボにNATO軍を駐留させることだった。またセルビア側が合意を拒否した場合、空爆の可能性もNATOはちらつかせた。ところが合意文書の中にコソボの独立の条件がアルバニア人側にとって十分ではなかったため、両者合意にはいたらなかった。結局、和平会議は3月15日にパリで再開されることになった。

1999年3月2日
アデム=デマチ、コソボ解放軍政治代表は辞任を発表。コソボ和平案に対し反対を表明し続けていた彼の辞任によってアルバニア人側が和平案を承認する可能性を示した。

1999年3月5日
元米上院議員ボブ=ドールとイブラヒム=ルゴバ、コソボ民主連盟代表がマケドニアの首都スコピエで会談。その後記者会見でルゴバはランブイエでのコソボ和平案に合意することを発表。

1999年3月15日
パリでコソボ和平会議再開(予定)。

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