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ダニツァ=マリンコビッチ プリシュティナ地方裁判所判事のインタビュー
1999年3月8日 ダニツァ=マリンコビッチ氏はIMCのインタビューに対し、一名のセルビア警官と約40人のアルバニア人が殺害されたラチャク事件に関する彼女の活動について語った。 1999年1月15日、警察官の護衛のもとマリンコビッチ判事はラチャク村に入った。一方警察はその日の朝に起きた警察官殺害の捜査をしていた。午後になって調査を行おうとしたときアルバニア人テロリストが彼女とその調査団に向かって銃撃を始めた。これによって調査団はこの地域から避難した。避難する前に多くの武器、弾薬、銃同様、村の泥地に捨てられた多くの軍服を採取した。武器はピストルから自動小銃を含み、ライフルはM-48自動小銃も含まれていた。20から30の迷彩服が村中の泥地に捨てられているのを発見した。泥地から引き上げた軍服は汚れていて、それらには血痕は付着していなかった。 事件は15日の午前11時頃起こった。警官のスウェティスラブ=ペルズヒッチがテロリストの攻撃で殺害された。スティムリェ地区管轄の警察署から通常のパトロール中であった。ユーゴスラビアから分離独立を主張するコソボ解放軍(KLA)に所属するテロリストと警官との間で銃撃戦が始まり午後1時ぐらいまで続いた。マリンコビッチはその場に午後2時30分に到着した。ユーゴスラビアの法律により、マリンコビッチが安全に調査できるように警察官はその地域の安全を確保しようとした。ユーゴスラビアの法律では、証拠を乱されないようにするため現場の確保に務めなければならない。 マリンコビッチの調査団は、ブローニング12.7mmマシンガン、7.9mmライフル、30丁の7.62mm自動小銃を含む武器を発見した。また2丁の狙撃ライフルも発見した。5丁の中国製グレネードランチャー、22個の手榴弾、7282発の弾丸を発見し確保した。これらの確保した中には3器の携帯用無線機、医療機器、UCK(アルバニア語のコソボ解放軍の頭文字)と記されたマークをつけた軍服もあった。この後銃撃にあい、調査は中断された。 16日、スティムリェ警察署にマリンコビッチは戻り、まだその地域は安全が確保されておらず、依然交戦中であると警察署長から報告を受けた。17日午前11時、セルビア警官によって虐殺が行われたとするウイリアム=ウォーカーOSCEコソボ検証団団長の公式見解に従い、マリンコビッチ氏はラチャク村に戻ろうとした。村の入り口でOSCEコソボ検証団のジョン=ドレンキエビツ氏に出会った。 1月17日、マリンコビッチ判事が村に入ろうとしたとき、ジョン=ドレビエキエビッツ(イギリス軍将校)OSCEコソボ検証団副団長にあった。彼はそのときマリンコビッチに虐殺の関与について調査を進めたいと言った。 マリンコビッチ判事は、ユーゴスラビアの法律では、どんな調査も彼女によって行われ、警察によって安全確保がなされなければならない。それについてドレビエキエビッツは彼女に対し、入村する判事のためにその地域を支配しているアルバニア人ゲリラから許可を取る交渉をすると伝えた。彼はまた、警察と判事の調査官たちの同行なしで判事とドレビエキエビッツだけ入ることを許可するKLAの許可証を取得したと言った。 また彼は続けた。もし制服を着た警察官を同行させ村にはいるなら、武装したそこに住む農民たちが判事たちの入村に抵抗するだろう。もし警官の同行によって判事が入村し、その結果誰かが殺されたとしたら判事の責任であるとドレビエキエビッツは判事を脅した。そのときは、ハーグ国際戦争裁判にかけられ、ドレビエキエビッツは証人として出廷すると告げた。ドレビエキエビッツは判事の調査官たちや世界からきているジャーナリストの前で判事に脅しをかけた。 これに対し判事は、彼女の法的義務において職務を遂行し、事件の調査のために村に入ると告げた。ドレビエキエビッツと彼のスタッフは彼女に同行し、彼女の調査を観察するのは自由であると言った。だがドレビエキエビッツはそれを拒否した。 マリンコビッチは村の中心に入りモスクの中にあった40の遺体を発見した。その遺体の中に一人の女性と12歳から15歳位の若い男性のものがあった。判事はすぐにプリシュティナにある法医学研究所で検死を行うため遺体の輸送を指示した。 そして40の遺体の正確な死亡理由を明らかにするため法医学者のサーシャ=ドブリチャニン博士に説明した。すでに村に残っていたOSCEのスタッフたちもモスクの中にいた。ギル=ギルバートソン(アメリカ)、エド=ソルベン(アメリカ)、ジョバンニ=ファンティーニ(イタリア)たちだ。 マリンコビッチの調査官たちは塹壕を発見した。また村の上に要塞がありそこにはマシンガン用の三脚が残っていた。その三脚は2日前に発見したブローニングマシンガンのものと一致した。要塞と塹壕の周りから平服と軍服、台所用品、食料、そしてそこから発射された弾丸の薬きょうを発見した。 また、作戦司令所をを発見し、そこにはピストル、ライフル、爆弾、迷彩服、司令官からの戦闘指令書、タイプライター、タイプライターで書かれた誰が現在兵役か、病気であるか、作戦指令所にいないかなど書かれた書類などもあった。その中の書類に32人が変名で記載されていた。その作戦司令所には台所やパンを焼くところまであった。また麦、卵などほかの食べ物やタバコ、アメリカのUSNDからの人道援助物資まであった。 マリンコビッチがその場の調査を完了したとき、CNNの質問に答えた。判事はCNNが知りたがっている以上の情報を答えた。しかし彼女のコメントは放送されなかった。AFPの記者がそこにいたかもしれなと思ったが、彼らからなにも聞くことは出来なかった。マリンコビッチは外国の記者たちのインタビューに答えていない。なぜならラチャク事件についての細かい説明を訪ねるものはいないからだ。 ドブリチャニン博士はベラルーシとセルビアの専門家たちと検死を行い、1月30日最終報告書を提出した。フィンランドの法医学専門家は検死が始まった10数日後に到着し、2月末までにフィンランドでDNAテストを行う必要があるとし、セルビアとベラルーシの検死報告を拒否した。 このインタビューは3月8日に行っているが、未だにフィンランドからの報告はなく、メディアの中で推測がなされている。3月15日セルビア政府とアルバニア人交渉団との間で行われるフランスのパリのコソボ和平会議まで結果を保留しておくのではないか。判事は続ける。フィンランドは判事に通知せず、彼らの結果をEUに伝えるのではないか。フィンランドが法的検死に参加しその結果を判事に報告する義務がユーゴスラビアの法律で守られているので、もしフィンランドが報告を怠った場合、判事は、セルビアの司法省を通して フィンランドの報告結果を取得する手段を講じると考えるからである。 ナイフや他の方法で遺体に傷を付けたり武器で射殺され虐殺の犠牲者だったとのアメリカ人のウイリアム=ウォーカーコソボ検証団団長の主張は間違いであったと検死報告で結論を出した。医学的テストによって遺体の手に着いた硝煙反応は彼ら自身が射撃し、銃器を運んだことを示した。また専門家は遺体は距離のあるところから打たれ死亡したと報告した。40の遺体はすべて平服を身につけ、服に空いた穴は遺体についた穴と一致した。 病理学者の公式報告書は地方検察局でファイルされ、支持される資料や書類もスラブコ=ステファノビッチ主検察官が管理している。最終的にその報告書はすべての死者は小火器によって離れたところから射殺され、遺体についた傷は生存中にできたものと結んでいる。これらの遺体のうち6名は動物によってできた傷もあった。 彼女の仕事は他の判事とローテーションを組んで月に一週間調査判事の仕事をする。ラチャク事件の時彼女はその任務に就いていた。だから彼女がこの事件を担当したのである。 (終わり) (注)略歴:マリンコビッチ氏は24年間法曹界で働いている。ボスニアで生まれ、彼女の父親はマケドニア人で、母親はセルビア人である。マケドニアの首都スコピエで育ち、1976年にプリシュティナに移住した。彼女は結婚し、16歳、16歳の二人の息子がいる。 (C) Copyright 1998, The InterMedia Center |